横浜の歴史を知れば本物の横浜通になれる!

  1. 横浜
  2. 横浜駅
  3. 馬車道
  4. 伊勢佐木町
  5. 中華街
  6. みなとと山下公園
  7. 横浜ことば
  8. 横浜絵(横浜錦絵)
  9. 本牧神社のお馬流し

「横浜」

 エキゾチックなひびきをもつ ”みなと横浜”。「横浜」の地名を最も古く見ることのできるのは磯子区にある宝生寺が所属する嘉吉2(1442)年の古文書である。横浜のめざましい発展は幕末の開港にはじまる。そして今、”みなとみらい21(MM21)”をスローガンに「21世紀の都市」づくりがすすめられている。

 この飛躍・発展のかげになって、人々が古くから営んできた生活のあと、”歴史”を見おとしてはいないだろうか。古くは,瀬谷区本郷などの先土器時代の遺跡をはじめ、縄文・弥生・古墳時代の人々の生活のあとを示す遺跡は市内全域にひろがっている。古墳期には『日本書紀』安閑天皇条に屯倉として倉樔(くらき)(久良岐郡=横浜南部か)の地域が献上されたと記されており、大和朝廷の勢力浸透の様子が見られる。また律令支配のあとも、港北区太尾町などに見られる条里制のあとを示す地名(市の坪)、また、都築郡(横浜北部)の服部於田(はとりのうえた)の防人の歌などによりうかがい知ることができる。平安末期には磯子・本牧・石川などの地を支配する平子(たいらこ)のような武士団も形成され、鎌倉時代には、頼朝の御家人として幕府を支えた。六浦道なども整備され、称名寺・金沢文庫もつくられ鎌倉とのかかわりでにぎわいをみせた。戦国時代には小田原北条氏のもとで蒔田に本拠をおく吉良氏が勢力をのばした。江戸時代、17世紀末に金沢区におかれた六浦藩(米倉氏1万2000石)を除いて大部分が天領で、一部旗本領になった。神奈川は港町として、また保土ヶ谷・戸塚とともに東海道の宿場としてにぎわいをみせた。吉田新田など新田開発がおおいに行われたのもこの頃である。

 ペリー来航後は文字通り日本の玄関として、また工業都市として発展した。関東大震災、太平洋戦争の打撃からも立ち直り、今日では多くの問題をはらみつつも東京とのかかわりをもちながら、東京に次ぐ巨大都市に膨張してきた。しかし開発のつち音は、また先人の貴重な遺産を破棄していく音でもあるのだ。

 参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996


「横浜駅」

 1872(明治5)年10月14日、横浜・新橋間に鉄道が開通した。当時の横浜駅は現在の桜木町駅の所にあった。駅舎はアメリカ人建築家ブリジェンヌが設計し、1871年9月に完成している。当初、横浜駅は、桜木町駅前の大江橋を越えて関内方面に設けられる予定であったが、蒸気機関車による火事を恐れて強い反対論が起き、けっきょく現在の桜木町駅までしか鉄道が作られなかった。

 1889(明治22)年に東海道線が全通したが、下り列車は神奈川駅から横浜駅に入り、そこで機関車を付け替えて同じ線路を戻って保土ヶ谷駅に向かわねばならず、非効率的であった。そこで1894年に、現在の高島町付近から平沼橋付近に線路を敷設して神奈川と保土ヶ谷を結ぶ短路線が設けられた。1901年にはその間に平沼駅が開設された。駅周辺は低湿地で立地条件は悪かった。そこで、港都横浜にふさわしい駅をという要望が高まり、1915(大正4)年8月、高島町にレンガ造りの駅舎を作り、それを横浜駅とし、従来の横浜駅は桜木町駅と改名した。しかし、この横浜駅も立地条件から再度移転を余儀なくされ、1928(昭和3)年9月に現在の横浜駅の位置に駅舎が完成した。ドイツ風の重厚な鉄筋コンクリート造の駅舎であったが、昭和56年に建て替えられ、近代的なターミナルビルへと生まれ変わった。昭和3年に駅舎が完成したころは、朝夕を除いては乗降客も少なく、日中でも人影はまばらで閑散としていたという。今日,一大ショッピング街を成している西口は、砂利・材木などの資材置場であった。西口一帯は敗戦で米軍に接収され、昭和27年に解除となったが本格的に開発されるのは昭和30年代になってからであった。

 参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996


「馬車道」

 吉田橋から県立歴史博物館にむかう通りは、街灯や電話ボックスが明治時期の洋風に模して作られ、往時をしのばせてくれる。この通りを馬車道(ばしゃみち)という。文字通り馬車の通る道で、居留地の外国人の要求により1867(慶応3)年3月に作られた。

 馬車は開港直後にわが国に入り、異人馬車・やぐら馬車・馬ひき車などと呼ばれ、外国人専用の乗物であった。これが乗合馬車として企業化されたのが、1867年秋で、茶や絹などの貿易を行っていたコブ商会によってである。同商会は、横浜と江戸築地(つきじ)間に午前と午後の2回定期便を走らせ、料金は1人2ドル、所要時間は2時間で営業していた。乗合馬車が日本人によって営業されたのは1869年5月で、わが国写真業の祖といわれる下岡久之助(蓮杖(れんじょう))らによって営業された成駒屋であった。成駒屋は吉田橋脇の官有地で営業し、そこを発着所とし、都橋を渡り、野毛山を通り戸部、平沼を経由して東京日本橋四日市河岸にむかった。2頭立ての馬車を使い、定員6人、料金は3分(ぶ)(後に75銭)で、所要時間は4時間であった。その後、これらの乗合馬車は互いにスピードアップや増便を行なって激しく競争したが、1872(明治5)年の鉄道開通、さらに人力車の普及によって乗合馬車は経営不振に陥っていった。

 馬車道の太田町角駒形橋の東詰め(現太田町4丁目)には、1868年、下岡久之助によってわが国最初の写真屋が開業され、翌年には、町田房造が常磐町5丁目に氷水屋(アイスクリーム屋)を開業、さらに1872年10月にガス灯がともり、馬車道は文明開化を象徴する通りであった。

 参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996


「伊勢佐木町」

 「ザキ」と横浜市民から親しまれている伊勢佐木町(いせざきちょう)は、元町・横浜駅周辺とともに横浜を代表する繁華街である。その町名は1874(明治7)年に制定されたが、その由来は、神奈川奉行を勤めた依田伊勢守と佐々木信濃守の姓をとったからとか、明治初期にこの地域の開発に尽力した太田町の伊勢文蔵と桜木町の佐々木年次の名からとったといわれている。この一帯は1667(寛文7)年に吉田勘兵衛が開発した吉田新田の一部であった。この地域が市街化されるのは、1866(慶応2)年11月の豚屋火事によって全焼した港崎(みよざき)遊廓が移ってきて以降で、明治になって開発は進み、興業場や商店が相ついで建てられた。

 伊勢佐木町やその周辺には、新派演劇の創始者で「オッペケペ節」で自由民権思想をうたいあげた川上音二郎が旗上げ公演を行った蔦座や、羽衣座・港座などの演劇場、1908(明治41)年開館で常設映画館の第1号の喜音満(きねま)館や、錦輝館・オデヲン座などの映画館が多数あった。オデヲン座は文字通りの洋画封切館で,東京からも多数の洋画ファンが押しかけたという。

 イセザキモールの関内側入口前に吉田橋がある。橋とはいえ現在は川もなく高速道路が通っている。吉田橋は吉田新田と開港場を結ぶ橋で、1859(安政6)年にかけられた。攘夷熱の高まりの中で、不祥事をさけるため、1861(文久元)年ここに関門が設けられた。なお、関内(馬車道側)という呼び名もこの時以来である。交通量の増加でより丈夫な橋の架橋が要求され、イギリス人技師プラントン設計で、工費7000円をかけて幅9m、長さ24mの鉄製の橋を作り、1869年に完成した。わが国最初の鉄製の橋で、当時、横浜の人々は「かねの橋」と呼び、横浜名所の一つになった。その後、1911(明治44)年に鉄筋コンクリート製の橋になったが、昭和53年、かねの橋の欄干を復原した現在の川のない橋が作られた。

 参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996


「中華街」

 現在、”中華街”といえば、ヨコハマの味を代表する中華料理店の並ぶところといっても過言ではない。

 1859(安政6)年、横浜開港以来、欧米人は多くの清(しん)国人をつれてきた。貿易に従事した経験を生かして海産物の買付けなどを行なうためとか、また商館などで労務に当る苦力(クーリー)としてである。当初、幕府は清国と条約を結んでいなかったので入国を取り締ったが、1871(明治4)年、日清修好条規を締結した後、中区山下町のこの地に各種の職業をもった人々が集まり、中国人の街を形成した。この地の居留民は上海・南京出身者が多かったこともあり、横浜の人々に昭和のはじめまで南京街(ナンキンマチ)と呼ばれ、親しまれてきた。

 1899年、外国人居留地が廃止され、中国人の居住・移転・営業の自由も認められたが、職業としては貿易業・料理人・洋服仕立・理髪などに限られていた。大正から昭和にかけて料理店が増加し、今日に至っている。ただこの街は順調に発展してきたわけではなく、日清戦争の時は帰国者が続出し、関東大震災では1000人以上の死傷者を出し、町は瓦礫(がれき)の山と化した。太平洋戦争の時も空襲で焼け野原となってしまった。

 太平洋戦争後、中華街の中央に「中華街」という額のかかった高さ役15mの朱ぬりの牌楼門(ぱいろうもん)が建てられ、建物も極彩色の店構えを工夫し、異国情緒豊かな街として復興した。なお街の中に,『三国志』の武将関羽を祀った関亭廟(かんていびょう)がある。これは1873年、商売繁盛・家内安全を祈って建てられた。1990年に改築し、その華麗な姿は中華街の名所になっている。

 参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996


「みなとと山下公園」

 1858(安政5)年に結んだ日米修好通商条約では開港場は神奈川と記されている。しかし攘夷熱の高まる中で宿場町・港町としてにぎわい、人出の多い神奈川では外国人とのトラブルが心配であった。幕府が他の適当な所を再検討し始めた時、勝海舟の門人佐藤政養(さとうせいよう)が横浜村を推した。東海道をはずれたひなびた漁村で手を入れれば長崎の出島と同様な条件を作れると考えたのだ。幕府は開港場を横浜に改め、外国側の反対を押しきり、商人たちの横浜移住を呼びかけた。1859年、開港した時、神奈川はもぬけのからで商売にならず、外国商館も横浜に移ってきた。そして1860年には掘割工事を行って大岡新川をつくり、横浜を出島にしてしまったのである。

 1859年、開港と同時に2ヶ所の波止場(はとば)がつくられた。輸出入貨物を扱う東波止場と国内の貨物を扱う西波止場である。ついで1864(元治元)年、今のホテルニューグランドの真向かいあたりにも波止場がつくられ、東波止場ともフランス波止場とも呼ばれた。そこで前につくられた二つの波止場を合わせて西波止場・イギリス波止場・メリケン波止場などと呼ばれた。現在の大桟橋(おおさんばし)のあたりだ。フランス波止場は現在埋め立てられてしまっているが、ここから幕末には井上馨、伊藤博文らが密航している。

 現在飛行機の発達の影響で、旅客船の入港は減少してきたが、貿易輸出入港としては大きな役割を果たしている。

 大桟橋に隣接して日本で最初の近代的な海辺の公園といわれる山下公園(やましたこうえん)がある。この公園は関東大震災で崩壊した建物の瓦礫(がれき)の山をもってきて埋め立ててつくったもので、昭和5年に完成し、市民に開放された。山下公園は横浜が大震災の悲劇を乗りこえた姿を示しているともいえよう。山下公園の一角に固定されている氷川丸(ひかわまる)は昭和5年からシアトル航路に就航し、太平洋の女王とうたわれ、秩父宮夫妻・チャップリンらも乗せたという。昭和36年より公園に繋留(けいりゅう)され一般に公開されている。

 参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996


「横浜ことば」

 横浜開港とともに、人々が集まり、外国人との接触が多くなった。そのような中で、貪欲(どんよく)に多種多様な文物を受容していった横浜の人々の積極的な姿を、次の「横浜ことば」から見てみたい。

 どろんけん            よっぱらい         drunker

 げれうご・ふあうざ        じいさん          grandfather

 ちゃいる             子ども           child

 しゃうがあ            砂糖            sugar

 どんたく(蘭語)         休日            zondag

  半どん(混成語)        半休日

 ぺけ               すてる,じゃま       peke

 ぐるもうねん           久しぶりに会う       good morning

                   おはよう

 ぐるばい             さよなら          good bye

 わん とう つれい ほう ふあい               12345678910

  せきす せぶん ゑい ない てん

 ちゃぶ台(混成語)        テーブル(食卓)      chop−houseや

                                 chop−sticksのchopから転訛

 はま(っ)ち           いくら?          how much

 もんき              さる            monkey

 ちゃ               椅子            chair

 聞いたままを仮名で記したため、適切でない発音もあるが、かえって本来の発音に近いものもある。また、ちゃぶ台のような混成語や「二羽の鳩」を説明するのに「とう・ポッポ・キ・マテマテ」と、外語混用の文などもとっさに用いた例などもあった。逆に外国人の中にも、理解した日本語を、外国語に混合して日本人に話すものもあったという。このように互いに親しく接触していく中で、横浜人は貪欲に外来文化をとり入れ、文明開化のさきがけをなし、横浜文化をつくり上げた。

 参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996


「横浜絵(横浜錦絵)」

 「横浜絵」は江戸時代、唯一の開港場長崎を背景にオランダ人や中国人の風俗などを描いた「長崎絵」に対する呼び名で、開港期の横浜を舞台に、異国風俗を紹介した多色刷の木版浮世絵である。その作品は,およそ800点にのぼり、そのうち約70%は横浜開港の翌年(万延元年)と翌々年(文久元年)に描かれた。

 貞秀・芳虎・芳員・二代広重・三代広重・国輝らにより、外国人のくらし・港の風物・港崎(みよざき)町遊廓・馬車・陸蒸気(おかじょうき)・人力車などが描かれ、横浜を訪れた人々に民衆絵として親しまれ、横浜のみやげの一つとしても人気があった。横浜の発展のようす、文明開化のようすなど知る貴重な資料といえよう。

 参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996


「本牧神社のお馬流し」

 お馬流し(おうまながし)(県民俗)は、横浜市中区本牧和田の本牧神社(ほんもくじんじゃ)に伝えられる。神社はもと十二天社といい、本牧十二天にあった。戦後米軍に接収されて本牧2丁目、さらに現在地へと移ったもので、跡地の前面海域は埋め立てられて昔日のおもかげはない。

 お馬流しは、社伝によると1566(永禄9)年に始まったといわれ、もと6月15日に行われていた。現在は8月第1または第2日曜日である。お馬は、体長約45cmの茅で作った馬首亀体といわれる形で、頭に白幣を立て、口に稲穂をくわえ、大豆と小麦をきな粉でまぶした ”餌”と神酒を亀体部に置く。お馬は6体作られる。旧本牧6村より各1体とのことであろう。しかし、作るのは古来羽鳥家と決まっており、約1週間かかって作り上げられたお馬は、祭りの前日に神社へ運ばれる。この時、お馬は各々お馬板と称する厚板の上に置かれて、奉斎者の頭上から頭上へゆっくりと渡し継がれていく。お馬への畏敬を意味する所作であろう。当日は、船を型取った花自動車にお馬を乗せて町内を巡行し、本牧漁港に到着する。ここでもお馬を頭上に渡し継いでゆっくりとした歩調で進むが、神船の手前でにわかに駆け出し、お馬を船人に渡す。”せめ”と称し、祭りは一気に勇壮なものとなる。神船は2隻で、お馬は3体づつ左舷(さげん)に安置され、沖合4kmほどで海上に流すと船は一目散に帰還する。放流したお馬が戻ってくることは特にきらわれ、かつて関東大震災の年にはお馬が還流したといわれている。

 お馬流しは、馬にあらゆる災厄(さいやく)を乗せて海に流し、無病息災や大漁・豊作を願う御霊信仰による行事である。社地移転や海域の埋め立て、時代の変遷を乗りこえて港都横浜の一角に伝わるこの古式神事は、まことに貴重な文化財といえよう。金沢区富岡町の八幡宮で行われる祇園舟(ぎおんぶね)は同系の神事である。

 参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996