横浜の歴史を知れば本物の横浜通になれる!

  1. 横浜公園
  2. 海岸教会とホテルニューグランド
  3. 日米和親条約調印の地
  4. ヘボン邸跡の碑
  5. ゲーテ座跡
  6. 外人墓地
  7. 地蔵王廟
  8. 根岸競馬場跡
  9. 三渓園

「横浜公園」

横浜市中区常磐町(根岸線関内駅下車2分)

 関内駅を降りると横浜市庁舎前に大きなすり鉢のような横浜スタジアムがある。この一帯が横浜公園(よこはまこうえん)である。日本大通り寄りの樹木に囲まれた中に、横浜公園の由来を刻んだ石碑がある。それによると1876(明治9)年開園で、わが国最初の西洋式公園であると記している。しかし、わが国における西洋式公園のはじめは、山手町にある山手(やまて)公園で1871年の開園である。

 横浜公園一帯は、大田屋新田の一部で湿地帯であった。開園以前には、1859(安政6)年11月以来港崎遊郭(みよざきゆうかく)があった。ここには遊女500人ほどがおり一大歓楽街を成し、特に異人揚屋(あげや)であった岩亀楼(がんきろう)は有名で、その建物は蜃気楼(しんきろう)か竜宮城かといわれて見物人が絶えなかったという。岩亀楼にあった石燈籠が、公園内の日本式庭園の一角にある。港崎遊郭は、1866(慶応2)年11月26日、関内一帯を焼き尽した豚屋火事によって焼失した。その後、幕府と外国公司団との間で居留地改造計画が協議され、その結果、公の遊園を作ることになり、1874年に起工し1876年に完成した。

 公園は「公園」とか、外国人と日本人の共同公園という意味で「彼我(ひが)公園」とか呼ばれた。しかし、利用するのは外国人ばかりであったという。西洋花火大会・国際親善野球試合・メーデーの集会などが、わが国で最初に行われたのもこの公園であった。

 参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996


「海岸教会とホテルニューグランド」

横浜市中区日本大通8(根岸線関内駅下車10分)

 英一番館と呼ばれたジャーディン=マジソン商会の跡地に建つシルク博物館もあるシルクセンターの斜め前に、こじんまりとした教会がある。日本最初のプロテスタント教会の横浜海岸教会(よこはまかいがんきょうかい)である。

 日本における新教の流れには、横浜・熊本・札幌バンドの三つの流れがあるが、横浜バンドが最も古い。アメリカ人宣教師バラとブラウンは1871(明治4)年に石造りの小教会を建てた。翌年にはバラとブラウンの下に集まった11人の青年によってわが国最初のプロテスタント教会である日本基督(キリスト)公会が組織された。1875年には大会堂を建設して横浜海岸教会と称した。1879年には、この教会で日本人による最初のクリスマスミサが行われた。関東大震災で大小両会堂とも崩壊したが、1933(昭和8)年、宮内省技師雪野元吉の設計で現在の建物がつくられた。

 シルクセンターから海岸通りを谷戸橋方向に進んでいくと山下公園をはさんで氷川丸と対して灰色の建物が見えてくる。ホテルニューグランドである。丸くカーブする谷戸橋側の壁面には「AD1927」と建物を示す年が刻まれている。

 開港後、外国人のために本格的なホテルが必要とされたが、横浜では1863(文久3)年にイギリス人が横浜居留地5番(現在の県民ホール付近)に会食場兼宿舎の横浜クラブを建設した。その後つぎつぎとホテルが建設され、関東大震災の直前までに外国人向けのホテルは14館575室あった。関東大震災でそれらはすべて倒壊・焼失し、応急のテントホテルが作られたがホテル復興を要求する声が高まった。1925(大正14)年11月、横浜市はホテル建設計画を決定し、東京帝室博物館などの設計で知られる渡辺仁の設計で鉄筋5階建(当時は4階建)アール・デコ様式の建物が1927年11月に竣工し、12月よりホテルニューグランドとして営業を開始した。

 ホテルニューグランドには来日した各国の著名人が宿泊した。チャップリンやベーブルースもここに宿泊した。大仏(おおらぎ)次郎は1931年から約10年間にわたって滞在し、『鞍馬天狗』『霧笛』などの作品を執筆した。昭和20年8月30日、厚木飛行場に降り立ったマッカーサーが最初の宿舎としたのもこのホテルであった。なお、GHQの建物となった東京の第一生命ビルの設計者も渡辺仁である。

 参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996


「日米和親条約調印の地」

横浜市中区日本大通(根岸線関内駅下車10分)

 関内駅から横浜公園をぬけ、わが国最初の近代的都市計画道路の日本大通りを大桟橋方向に行くと、B・C級戦犯を裁いた横浜地方裁判所があり、さらに県庁前には横浜開港資料館がある。同館は昭和56年6月に開館し、日本の開国、横浜開港関係の資料を集め公開展示している。この建物は1931(昭和6)年に建てられ旧イギリス領事館である。

 開港資料館の隣りに、噴水を中心として波模様をデザインした石敷きの開港広場がある。その一角に地球を象(かた)どった日米和親条約調印の地(にちべいわしんじょうやくちょういんのち)の石碑がある。1853(嘉永6)年7月、ペリーの率いるアメリカ東インド艦隊の4隻の軍艦が三浦半島沖に姿を現わし、久里浜海岸で開港要求の国書が幕府に手交された。翌年2月、ペリーは再び来航し、開国に関する会談が久良岐郡横浜村字駒形(現県庁付近一帯)で行われた。トイツの画家で、ペリーに同行してきたウィルヘルム=ハイネの石版画などに、応接所の脇に大きな樹木が描かれているが、それは横浜村の漁師達が帰帆の目印とした玉楠(たまくす)の木で開港資料館の中庭にある玉楠はその2台代目である。

 1854年3月31日、日米和親条約12ヵ条が調印された。この間、アメリカ側から多数の品物が贈られ、特に電信機と模型の蒸気機関車は日本人を驚かせた。

 開港広場にはレンガづくりのマンホールと卵形の断面をした下水管が保存されているが、それは1881(明治14)年から87年にかけて居留地一帯に下水道が整備された時のもので、広場工事中に発見された。

 参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996


「ヘボン邸跡の碑」

横浜市中区山下町39(根岸線石川町駅下車10分)

 石川町駅を降り、堀川を海岸方向に歩き谷戸橋前の横浜地方合同庁舎前にヘボン来日90周年を記念して設立されたヘボン邸跡の碑がある。ヘボンは1815年3月にアメリカで生まれ、大学で医学を学びニューヨークなどで開業していたが、アメリカプロテスタント長老教会の日本伝道に応募し、1859(安政6)年10月に来日した。来日後、一時神奈川の成仏寺に住み、そこで近代兵制樹立に尽力した大村益次郎らに英語を教えた。1861(文久元)年春には宗興寺に診療所を開き、翌年11月、神奈川から記念碑のある横浜居留地39番地に移り、本格的に施療事業を行なった。ヘボンは歌舞伎の立女形(たておやま)として名声を博していた3代目沢村田之助の脱疽(だつそ)を治療し、アメリカから取り寄せた義足を付けた。田之助は関内の下田座でお礼興行を行い、ヘボンの名をいっそう高めた。

 1863年10月、ヘボン夫人クララは日本最初の男女共学の英学塾を開き、後に首相となった高橋是清とか外相となった林董(ただす)や星亨(とおる)もここで学んだ。この学校は後に明治学院となった。

 この間、ヘボンは新聞事業の先駆者の岸田吟香(ぎんこう)と協力し、わが国最初の和英辞典である『和英語林集成』を1866年に完成させた。この辞典のローマ字綴りがヘボン式ローマ字の基礎となっている。

 1875年、ヘボンは山手245番地に移り、ブラウンやグリーンらとともに『新約聖書』の翻訳事業に参加し、1879年に完成させた。この作業は山手211番地のブラウン宅で行われ、そこは現在横浜共立学園の敷地で、「新約聖書和訳記念之地」というプレートが残されている。

 参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996


「ゲーテ座跡」

横浜市中区山手町254(根岸線石川町駅下車15分)

 堀川にかかる歩道橋を渡り、フランス山公園の入口を過ぎ、クリーニング業発祥の地の碑を見ながら谷戸坂を登ると、港の見える丘公園の前に出る。その右手にレンガ外装の建物が見えるが、それが岩崎博物館で服飾の歩みを展示している。その場所が、わが国最初の本格的な劇場であるゲーテ座(Gaiety Theater)の跡である。ゲーテ座のゲーテという語は、英語のgaiety(愉快・陽気」・快活)に由来している。

 もともとゲーテ座は、1870(明治3)年12月6日にオランダ人のノールトフーク=ヘフトによって、本町通りに面した横浜居留地68番地(谷戸橋北、現在のテレビ神奈川の裏あたり)に建てられた劇場であった。このゲーテ座は、建坪413u、石造平屋造で、ローマの神殿建築を思わせる建物で、内部にはガス灯による照明、換気装置、緞帳(どんちょう)などの設備もあった。1872年11月にゲーテ座はパブリックホールと改称されて各種の催物に利用された。その後、より広いパブリックホールの建設運動がおき、1885(明治18)年4月18日に谷戸坂上の山手256〜257番地に地下1階地上2階建でレンガ造、建坪890u、350人収容のホールが完成した。これがゲーテ座と呼ばれるようになるのは1908年12月からで、音楽会・演劇・講演など各種の催物に利用された。

 当時の観客としては、イギリス人をはじめとする外国人が多かったが、その中にまじって滝廉太郎(たきれんたろう)・坪内逍遥(つぼうちしょうよう)・北村透谷(とうこく)・小山内薫(おさないかおる)・和辻哲郎(わつじてつろう)・佐々木信綱(ささきのぶつな)・芥川竜之介(あくたがわりゅうのすけ)・大仏(おおらぎ)次郎らの顔も見え、ゲーテ座は、明治・大正期のわが国の文化に大きな影響を与えた。

 本町通りに建設されたゲーテ座は、1909年10月21日に焼失し、山手のゲーテ座も関東大震災で崩壊してしまった。

 ゲーテ座の近くには、昭和12年に建設された、元イギリス総領事公邸である横浜イギリス館や、大仏次郎の自筆原稿や関係資料を展示している大仏次郎記念館がある。

 参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996


「外人墓地」

横浜市中区山手町(根岸線石川町駅下車15分)

 ゲーテ座跡に建てられた岩崎博物館の斜め前に外人墓地(がいじんぼち)の正門がある。門柱にはトーマス=グレーの鎮魂の誌が刻まれている。ペリーが再来航した1854(安政元)年3月6日、軍艦ミシシッピー号のウイリアムズ2等水兵がマストから甲板に転落して死亡した。ペリーは、横須賀市の夏島への埋葬を申し出たが幕府は拒否し、けっきょく、幕府は山手の丘の麓にあった増徳院(関東大震災後、南区平楽に移転)の海が見える境内に埋葬の場所を提供し、3月10日に水兵は埋葬された。ここが現在の外人墓地で、その後居留地の外国人の増加に伴って墓域を拡張し、今日では1.8haの墓域に4200ほどの墓標が立ち並んでいる。ウィリアムズ2等水兵は3ヶ月後に、伊豆下田の玉泉寺のアメリカ人専用墓地に改葬されたが、今日判明している最古の墓は、1859年8月27日、本町付近派の武士に殺害されたロシアの軍人のものである。埋葬者の国籍は40数ヶ国にもなる。

 墓地には生麦事件で殺害されたリチャードソンらの犠牲者をはじめ、鉄道建設の父モレル夫妻、絵入り英字新聞『ジャパン=パンチ』を発行したり、高橋由一らに洋画の画法を教えたワーグマン、日本最初の女学校のフェリス女学院の創設者キダー、ビール工場を作ったコープランド、ゲーテ座設立のヘフトら、日本の近代史とかかわりの深い人物が多数眠っている。1994年外国人墓地資料館が開館した。外人墓地の前に山手資料館がある。1909(明治42)年建築の木造西洋館で、当時の建築様式を残している。館内では、幕末から明治期の文化・風俗を示す品々が展示されている。

 外人墓地の横の元町公園の前に大谷石の外壁でできている山手聖公会がある。現在の建物は関東大震災後の1931(昭和6)年に再建されたものだが、以前はニコライ堂や鹿鳴館の設計者であるコンドルの設計で、1901年に完成した赤レンガ造、尖頭がそびえるゴシック様式の建物があった。

 山手聖公会からさらに進むと山手カトリック教会がある。この教会の前身は、フランス人宣教師ジラールによってホテルニューグランド裏手の山下町80番地に建てられた横浜天主堂(正式名称は聖心聖堂)である。長崎の大浦天主堂より2年早い。人々は耶蘇(やそ)寺と呼び、見物人も多かったという。横浜天主堂は、1906年に現在の山手44番地に移った。双塔がそびえるレンガ造の聖堂は、トンガリ耶蘇と呼ばれて日本人の間でも親しまれた。それも関東大震災で倒壊し、1933年に現在の建物が完成した。現存する鐘やマリア像は横浜天主堂時代からのもので、創設者ジラールは、教会の祭壇左側の壁の中に葬られている。

 参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996


「地蔵王廟」

横浜市中区大芝台7(根岸線桜木町駅バス根岸駅行山元町1丁目下車7分)

 バス停山元町1丁目を降り、根岸森林公園方向に歩き、二つ目の交差点を右折し2分ほど歩くと、左手に地蔵王廟(じぞうおうびょう)と書かれた中国風の山門が見える。そこが南京墓といわれる在日中国人の共同墓地である。

 欧米人とともに来日した中国人は、亡くなると山手の外人墓地に埋葬されていたが、1873(明治6)年3月、中国人の墓地としてこの地が定められた。墓地内にある寺の地蔵王廟はレンガ造の建物で、広東(カントン)から呼び寄せられた大工らにより、「光緒18年」つまり1892(明治25)年に建設された。その入口の両側には「慈雲照五嶽」・「佛像奇扶桑」と書かれた聯(れん)が掛けられている。本尊の地蔵菩薩は広東から持ってきたもので、全体を金色に塗った乾漆像で、インド風の法衣に中国帽をかぶって趺坐している。廟の横を登ると安骨堂がある。黄白色と青色で塗り分けた方形三層の寺塔風の建物で、空に鶴が重なって飛んでいるように見えるので黄鶴桜(こうかくろう)ともいう。門の左に安霊堂があり、その中に遺体を納めた柩(ひつぎ)が並べられていた。かつては何年かに1度、柩船(ひつぎぶね)が仕立てられて柩が故国に運ばれていたが、関東大震災・日中戦争と続く中でこの風習もなくなってしまった。

 参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996


「根岸競馬場跡」

横浜市中区根岸台(根岸線桜木町駅バス根岸駅行旭台下車1分)

 バス停を降り、根岸森林公園の入口を入るとうっそうとした木立の間から黒ずんだ巨大な鉄筋コンクリート造のスタンドが見える。ここが近代洋式競馬の発祥地である根岸競馬場跡(ねぎしけいばじょうあと)である。

 外国人居留者により、わが国で最初に競馬が開催されたのは、1861(文久元)年に桜木町駅前の弁天橋付近の海岸を埋め立てて造られた馬場である。その後、1862年、生麦事件の賠償の一つとして英国は競馬場の造成を幕府に要求し、その結果、競馬場は現在の中華街を囲む地域に造られた。同年8月1日にはそこで第1回横浜ダービーが開催された。この競馬場は翌年に廃止され、新たな競馬場は現在の港の見える丘公園周辺の英軍20連隊の練兵場の一画に造られた。貿易の活性化で外国居留者もふえ、より広い馬場を求める声が高まった。幕府は諸外国と横浜居留地覚書を締結し、吉田新田の沼地に競馬場を確保することを約束した。しかし、あいつぐ外国人殺傷事件により、外国人の生命安全の確保から外国人遊歩道内の根岸村に馬場が建設されることになった。1865(慶応元)年6月に工事が開始され、翌年に幅32m、外周1.9kmの馬場と、70m四方の馬見所が竣工した。1867年春には競馬が開催され、以後、毎年春と秋に開かれるようになった。1902(明治35)年11月には、日本ダービー賞典が催された。

 1866年に完成した施設は関東大震災で大被害を受け、昭和4年に今日残る鉄筋コンクリート造のスタンドが、総工費40万円をかけて完成した。昭和17年10月まで競馬が開催されたが、翌年には海軍に接収され、敗戦後はアメリカ軍に接収された。昭和44年に競馬場地区の日本への一部返還が決定し、横浜市と中央競馬会の所有となり、森林公園として市民の憩いの場となっている。昭和54年には馬の博物館が開館し、馬に関する資料が集められ人間と馬とのかかわりについて展示している。

 参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996


「三渓園」

横浜市中区本牧三之谷293(根岸線桜木町駅バス本牧市民公園行本牧三渓園前下車)

 生糸貿易商として財をなし、関東大震災後の横浜の復興に尽力した実業家原富太郎は、また美術愛好家としても知られていた。孔雀明王画像(国宝、東京国立博物館所蔵)や木製多宝塔(国重文)をはじめとする古美術の逸品を収集し、横山大観ら近代日本画の創造をめざす若手芸術家を育成した業績は大きい。とくに、三渓園(さんけいえん)の造園は、彼の卓越した芸術への見識と文化遺産への深い造詣をもって日本美の世界を実現したものといえよう。1899(明治32)年に居を野毛山から本牧三之谷に移すと、19haに及ぶ広大な地に池を掘り、関西や鎌倉から寺塔・殿舎・茶室などの逸品を集めて、自然の起伏に巧みに配して造園した。三渓園は、富太郎の雅号の三渓をつけたほど精魂を傾けた名園で、私園ではあるが1906年に広く市民に無料で開放した。その後、戦災で多くの被害を受けたが、昭和28年に財団法人三渓園保勝会が設立され、一般公開と維持管理に当たっている。

 園内は、大池を中心とした外苑と、重文の建築が建ち並ぶ内苑とに分かれる。まず内苑からまわってみよう。紀州徳川家の別邸巖出(いわいで)御殿であったといわれる臨春閣(りんしゅんかく)(国重文)は、桂離宮と対比される数奇屋(すきや)風の書院造で、狩野探幽や狩野永徳筆と伝える襖絵(ふすまえ)がある。旧天瑞寺の寿塔の覆堂(おおいどう)(国重文)は、秀吉が母の長寿を祝って建てた桃山初期の建築。ついで、階段を昇ると、家康が再興した伏見城の諸大名控室であったと考えられる月華殿(げっかでん)(国重文)、もと鎌倉建長寺の近くにあった心平寺(しんぺいじ)の地蔵堂を移した天授院(てんじゅいん)(国重文)がある。木々とせせらぎに囲まれた聴秋閣(ちょうしゅかく)(国重文)は、徳川家光が佐久間将監(しょうげん)に命じて京都二条城内に建てさせた二重の桜閣建築で、当時は三笠閣と称した。西本願寺の飛雲閣に似た趣があり、左右の対称を避けたバランスが見事だ。春草蘆(しゅんそうろ)(国重文)は、先の月華殿が宇治の金蔵院(こんぞういん)の客殿であった時に、それに付属していた茶室九窓亭で、織田有楽斎(うらくさい)の作と伝える。三渓記念館では、原三渓の業績や収集した美術工芸品等を展示・紹介している。

 外苑に出て大池にそそぐ渓流をさかのぼると、縁切寺として有名な鎌倉東慶寺の仏殿(国重文)がある。屋根は当初の入母屋造(いりもやづくり)から寄棟造(よせむねづくり)に改められているが、禅宗様の仏殿の特色をよく伝えている。隣に岐阜県の白川郷から移築した旧矢箆原(やのはら)家住宅(国重文)がある。入母屋合掌造(いりもやがっしょうづくり)の建物で、江戸中期の上層農民の生活ぶりがうかがえる。最後に、三渓園の景観の要(かなめ)ともいうべき中央の丘にそびえる旧燈明寺(とうみょうじ)三重塔(国重文)へ。京都府加茂の燈明寺から移されたもので、1457(康正3)年頃の再建とみられる関東最古の塔である。丘陵下には塔よりやや早く建てられたであろう燈明寺本堂(国重文)が移築された。

 東京湾に面する丘陵地に造られた三渓園は、海域の石油コンビナートをはじめとする激しい都市化により周囲の景観が失われたが、四季を通じて市民の憩いの地となっており、都市化によりその価値を一層高めつつあるといえよう。

 三渓園の東約500m、本牧臨海公園の丘に法隆寺夢殿を摸した三層八角形の八聖殿(はっせいでん)がある。昭和8(1933)年に元内務大臣安達謙蔵(あだちけんぞう)が私費を投じて建造した国民精神修養の道場で、二階講堂にキリスト・ソクラテス・孔子・釈迦(しゃか)・聖徳太子・弘法大師・親鸞(しんらん)・日蓮の八聖人の等身大の彫像がおさめられている。この八聖殿は、昭和12年に横浜市に寄贈され、昭和48年には新たに八聖殿郷土資料館として発足した。市内各地から集められた農具・漁撈具などの民俗資料が展示され、文化財関係を中心とした図書の閲覧室もある。

 本牧市民公園から根岸駅方面行バスに乗り不動下で下車し、根岸森林公園へむかう途中の中区根岸旭台11番地に太田家住宅(県重文)がある。茶人として知られた松江藩主松平不昧(ふまい)公の江戸中屋敷と伝える建物で、材料はぜいたくに吟味され、大名の別邸としての十分な格式をそなえた書院造の邸宅であるが公開されていない。

 参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996